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特集記事

元気人

夢を持つことで人は成長し
個々の夢と情熱が企業を熱くしていく

竹内 利満(たけうちとしみつ)
レンタルハウス株式会社 代表取締役

不動産賃貸仲介流通の分野で、常に新しい流通システムを模索・開発・推進してきた男がいる。
レンタルハウス株式会社 代表取締役 竹内利満。
綿密なエリアマーケティングと地域特性を重要視した事業戦略、独創的な経営手腕で、業界内に抜群の知名度を持つ経営者である。
和歌山という地方都市に本社を構えながらも、全国的な業界の動向に不可欠な存在として、その影響力は果てしなく大きい。経営者としても、また人生の師匠としても、数々の経営者から慕われるその魅力とは一体どこにあるのか。
リプロス編集長・松尾充泰が独占インタビューした。


【お悔やみ】
レンタルハウス株式会社 代表取締役会長 竹内利満様が2月9日、享年65歳にて永眠されました。
ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


■竹内 利満(たけうちとしみつ)
レンタルハウス株式会社 代表取締役

昭和21年6月16日生まれ。高知県出身。
県立高校を卒業後、宗教法人の広報誌編集記者などを経て、建築専門学校へ進学。
在学中に、不動産仲介会社の大建(現エイブル)に入社。
大建を退社した昭和55年にレンタルハウスの前身である建築センターを創業し、昭和57年にはレンタルハウスとして法人化する。
現在はアパマンショップネットワークのフランチャイジーとして全国に10店舗、グループ会社数社を経営。
「善は行い」の信念を持ち、全国賃貸管理ビジネス協会副会長も兼任するなど、業界の全国的な活動にもリーダーシップを発揮するかたわら、
ボランティア活動などにも精力的に参加している。
 

自分探しの6年間~異分野からの出発~

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●松尾 出身をお聞きし驚いたのですが、竹内社長は和歌山のご出身ではないそうですね。
●竹内 ええ、出身は高知県の安芸郡という所です。実家が宗教法人だった関係で、私自身、高校を卒業後の6年間は布教活動や記者などをした経験もあるのですが、実はその頃から建築の分野に強い関心がありましてね。夜間の建築学校に通うため大阪へ出たのが、この業界へ参入したそもそものきっかけとなりました。

●松尾 布教活動をなされていたご経験までお持ちとは、出発点は全くの異色だったんですね。しかし、いくらご実家がされていたこととは言え、高校生の決断とは思えない(笑)
●竹内 私自身、一旦は大学進学も考えたのですが、その当時、将来への展望が本当にぼんやりとしていましてね。大学に進んで社会に出ても、一体何がしたいのか・・・自分自身の目標が明確ではなかった。ならば人生観を養うという意味でも、テーマを見つけるという目的でもいいから父の下で修行してみようかなと。「世直し」という言葉がありますが、その世界に身を置くことで見えてくるものを感じ取りたい、という強い思いがありました。で、約1年半は見知らぬ土地で布教活動をはじめとした様々な修行を行うなどしていたのですが、海外布教を志して本部勤めをしている時に「編集部に所属しないか」といった言葉をいただきましてね。以降はカメラ一つを持たされて、日本全国を行ったり来たりの毎日に(笑)

●松尾 それは、記者という立場でいらしたわけですか?

●竹内 そうです。いわゆる広報活動になりますが、全国各地で活躍しておられる様々な著名人や地域で活動しておられる方々の元を訪問し、お話を伺っておりました。で、その取材内容を元に月に3回、タブロイド版の発行を。これは本当に勉強になりました。とにかく取材ですから、話を聞くという作業はもちろんのこと、文章を書くということの難しさを痛感。分かりやすく伝えるというのは当たり前で、いかにすれば人心を惹きつけられるのか・・・。モノを書くにはボキャブラリーがなければ話にならないわけですから、とにかく本を漁るように読んだり、文章の一からを教えてくれる専門の学校に通ったり・・・。印刷も今のようなコンピュータ処理ではなく、当時は活版印刷でしたから、校正の事も、印刷の事も、それこそ輪転機や製版機といった機械のことまで分かっていなければ仕事にならない。本当に忙しく大変ではありましたが、この経験が、後々の事業にも繋がっていきました。

夢の真下へ。いざ上阪

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●松尾 建築学校へ通うようになられたのはその頃でしょうか。
●竹内 はい。幼少の頃から、そして編集の仕事をしながらも常に興味を持ち続けていた建築・設計の分野にどうしても飛び込んでみたくなり、父を説得。夜間の専門学校へ通うべく、昭和45年、24歳の時に大阪へ出て参りました。とは言うものの、夜間学校ですから昼間は働かなければならない。で、たまたま下宿先の近くにあった大阪建設(大建株式会社の前身であり、現、株式会社エイブル:賃貸住宅業界最大手の草創社名)の門戸を叩いたのがこの業界への第一歩でした。建築と不動産は切っても切れない関係と思い、アルバイト感覚ではじめたわけです。

●松尾 エイブルの草創期をご経験されたのですね。

●竹内 ええ。今でこそ業界最大手の企業ですが、その当時は従業員も私を含め、たった5名の個人会社でしてね。大阪府守口市の京阪電車「土居」駅前に、アパート専門の仲介会社として展開しておりました。入社してみて、設計とは直接関係ないことに気付き、一旦は辞めようかとも考えたのですが、当時の社長の人柄と仕事の面白みにどんどん惹き込まれていきました。恐らく、自分にとっての天職だったんでしょうね。それに、以前布教活動をしていたこともあってか、営業という仕事は難しいとは全く感じなかった。考えてもみてください。布教というのは、目に見えないものを相手に伝え、そして理解させなければならない。生意気なようですが、それに比べ、しっかりと存在する商品を案内する仲介という仕事は、むしろやり易いとさえ感じたものです。

●松尾 天性の営業センスを、若くしてご自分のものにされていたのですね。大建には何年くらい在籍しておられたのですか。
●竹内 約9年です。入社後は店舗拡大に邁進しました。勤めて約1年半後、2号店出店の任を命ぜられ、店長として市場調査から人材募集など、全ての業務を担当。以来、大阪を皮切りに、京都、兵庫、福岡と、多店舗展開の事業拡大を推進していったわけですが、その際、私が戦略的に最大限駆使したものが、媒体力です。
 

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●松尾 と、おっしゃいますと?
●竹内 当時は、不動産広告というと新聞やチラシ、街頭広告などを利用するというのが大半だったのですが、いわゆる「オトリ広告」と言われる誇大広告を使う業者が後を絶たない。誇大広告ですから、つまりはウソなのですが、お客様はそれを信じ、業者はそれを誤魔化しながら営業をする・・・という悪循環が常だったわけです。これではいけない、と、業界の悪い流れを断ち切るために必死になって抗議をしたり、真正直な広告を幾度も打つなどし、対抗してはみたものの、同じように広告を使っているだけではお客様が一向に集まらない。どうしてもウソの価格に負けてしまうのです。ではどうすれば良いか・・・。苦慮した挙句、出した結論が、ならば「自分たちで正しい媒体を作ってしまおう」というものでした。嘘偽りのない、真正直な情報だけを掲載した媒体・・・そのために作ったものが「賃貸住宅ニュース」という雑誌です。

●松尾 えっ、あの賃貸住宅ニュースは竹内社長が創刊されたものなんですか?
●竹内 そうです。で、その際に役立ったのが、過去の編集経験だったというわけで(笑)

●松尾 さらっと話しておられますが、賃貸住宅ニュースと言えば、業界初の専門誌ですよね。いやぁ、驚きました。素晴らしい先見の明でいらっしゃいますねぇ。

●竹内 いやいや、遅かれ早かれ時代に無くてはならないものだったのだと思います。ただ、当時の私自身の経験が、“媒体を持つ”ということがどれだけ有利か、という事実を理解していただけのことです。
 
会社経営への熱き想い

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●松尾 これまでのご経歴を伺っておりますと、すべての事柄が実に絶妙な形でリンクし、繋がっておられますよね。編集のご経験もそうですが、布教活動をされていた時からの、たくさんの方と会われ、話され、学ばれたというご経験が、生意気な言い方をさせていただきますと、竹内社長のお人柄そのものに見事に集約されているように感じます。
●竹内 ありがとうございます。確かにおっしゃるとおりかも知れません。父から教わったこと、記者時代の経験、そして大建との出会い。すべてが自分にとってはかけがえのない財産です。中でも、大建の当時の社長に教わった経営者としての物の見方・捉え方・厳しさは、自分自身の人生観を大きく変えるものでした。気が付くと、設計士への憧れは吹っ飛び、会社経営への感心が興味の全てに変わっていきました。がむしゃらに業務に邁進する内、業界の動向・将来性を自然に理解していくことが出来たのも大きな力となりました。

●松尾 そうしますと、独立を決意されたのは自然な流れであったと?
●竹内 そうですね。会社経営への強い信念と、自分自身の可能性を信じ、昭和55年の8月、9年間勤めた大建を退職。独立を志しました。

●松尾 和歌山で独立されたのには、何か特別な理由がおありだったのでしょうか?
●竹内 これは全くの偶然で、もともとは東京での開業を夢見ていたんですよ。退職後、半年間は個人的に勉強したいこともあり、充電期間を設けていたのですが、そんな折、知人の会社のコンサルティングをお引き受けすることになりましてね。その仕事がたまたま和歌山であったと。ところが、短期の融資をしたことから、資金の回収が困難になりまして。やむなく資金の回収を兼ねて、和歌山市の賃貸市場を調査するようになったのがそもそものきっかけです。

●松尾 なるほど、そのようなご経緯が・・・。しかし人生とは本当に分からないものですね。具体的にはどのようなマーケティングをされたのでしょうか。

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●竹内 ?人口・世帯数の動向(自然的動態、社会的動態、婚姻届け数)、?賃貸住宅の実態(統計調査による公営住宅、給与住宅、民営住宅数)、?過去5年間のアパートの新築着工件数・戸数、?県や市の行政実態・政策、大型プロジェクトの内容、?プレハブメーカーなどの建築業界、?不動産業界(賃貸仲介業者の数、規模、営業体制、従業員数)、?賃貸住宅の取引形態、賃料などの相場、商習慣、?広告媒体の内容(特色、発行部数、エリア、広告掲載内容)、?入居者のニーズ、?オーナーのニーズ、?交通機関、?地元優良企業の実態と景気、?営業社員の賃金(求人内容)といった対象を設け、綿密な調査を行いました。私自身、新店舗の開発は関西をはじめ、京都、福岡など、様々な経験と実績を積んできましたが、この調査で和歌山は同じ関西圏ではありながら、大阪とはかなりの違いがあることに気付きました。そこでこの調査結果を元に、地方都市での仲介業態フォームを模索。3年間を目処に、地域ナンバーワンの賃貸仲介業者を目指そうと決意したわけです。当時の和歌山市の人口は40万人で12万6000世帯。年間の婚姻届は3000組、離婚届700組、転入1万2000人というデータでした。つまり、年間に少なく予測しても約5000件の賃貸仲介の市場ということになり、平均賃料を4万円とみて、4億円マーケット。有望な市場であるとの判断を下しました。一方、仲介業者の営業実態はというと、小規模で待ちの体制が主体。これなら小資金で短期勝負でき、50パーセントのシェアを獲得できると確信し、調査データをもとに戦略を立て、開店の準備に踏み切った次第です。
 
地域交流が経営の土台をつくる

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●松尾 綿密なマーケティングは最強の布石と言いますが、まさにご経験とご実績の成せる業ですね。実際のご創業は何年に?
●竹内 昭和55年、当初は建築センターという名称でスタートし、翌56年にレンタルハウスに組織変更して、市内、本町4丁目で仲介専門店舗を開設しました。この地を選んだ理由としては、本町という名称は、どこの都市でも中心的な要素が強いこと、また和歌山市の交通機関はバスがメインであり路線が多いこと、さらに人材募集の際に有利・・・等々です。スタート時は商品ゼロからの出発ですからね。優良な物件の仕入れが最重要課題になるのですが、当社ではまず、社員教育と育成を兼ねて物件の仕入れと調査に注力致しました。家主訪問は、社員教育の面でもっとも営業力がつくものです。また、依頼を受けた物件には責任感が芽生え、市場性や物件知識が身に着きますし、何より、会社説明やPR、また不動産業務への理解が深まり、優秀な人材に育ってくれます。お陰で当社では、スタートからわずか2ヵ月というスピードで、単月分の利益を確保することができました。

●松尾 明確な事業戦略がある分、社員教育の方向性も実に明快且つスピーディーになるのですね。本当に勉強になります。

●竹内 何事も最初が肝心と、経営理念をしっかりと確認し、開業のテーマを掲げたことが、結果的にはスタッフの理解を生み、好スタートへと繋がったのだと思います。

●松尾 ご開業時のテーマとはどのようなものだったのですか?
●竹内 「賃貸住宅の流通を改革し、豊富で広域な情報を提供しよう」と。また同時に社名も業務内容が分かりやすく、若い人にも親しまれるものを・・との理由から、「レンタルハウス」に名称変更を致しました。確かに滑り出しは順調であったと思いますが、私自身、和歌山では親戚も友人もなく、まして地理も分からないような状態でしたからね。地域での交流をいかにして行っていくか、ということも大切な課題の一つでした。そんな折、意外なところから地域の方々と交流できる機会に恵まれましてね。

●松尾 ほう、それは一体?
●竹内 一つは地域で頻繁に実施されていた野球連盟への参加です。とは言うものの、その当時は全社員を駆り集めても6名しか居りませんでしたので、取引先の社員の方などをお誘いし、参加しておりました(笑) にわか作りのチームですから、試合に勝つようなことはほとんどありませんでしたが、社員の士気を高め、チームワークづくりを行う上では実に最適な取り組みだったと思いますし、地域での大勢の仲間が出来たことも、もちろん大きな収穫でした。また、野球連盟を通じて知り合った方の中に国政選挙の候補者がおられ、その方を積極的に応援させていただいたことがきっかけで、気が付くと選挙対策本部のスタッフになっておりましてね。お陰様でいろいろな立場の様々な方々との交流が生まれました。さらに、家族を和歌山に呼び寄せたことから、転校させた長男の友達づくりにとボーイスカウトに参加するようになったのですが、その指導者から「親も一緒に参加して協力を」と言われ、私自身が指導する教育を受けることになり、そのうち、団の運営まで任されるように(笑) こうした地元交流の場に積極的に参加していったことが、結果的には地域社会に馴染んでいくための最短距離となりました。
 
地域ナンバーワン店を目指して

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●松尾 レンタルハウスとしても、専用の媒体を発行しておられますよね。
●竹内 はい。先程も申し上げましたとおり、媒体を制する者が市場を制する、というのが私の持論です。特に賃貸事業では「借り手集客」はもっとも苦労する部分。強い媒体を持つことは戦略上、もっとも重要な課題の一つだと考えております。そうした流れから最初に発行したのが、昭和58年に出したチラシ1枚タイプの「月刊 アパート・マンション情報」。この反響を見て、翌年には20頁の雑誌に発展させ、さらに3年後にはこれを月2回・6000部発行の媒体へと成長させていきました。もちろん、販路はできるだけ多くの人の目に触れるようにしなければ意味がありませんから、書店を中心に、コンビニ、駅売店、また県下一円の美容院や喫茶店、地元企業などへのDMも含め、広範囲に配布していくことで媒体効果の向上を図っていきました。その後、この情報誌の運営をグループ会社に任せ、最終的には「月刊 レンタルハウス」としてA4判100頁以上のボリュームで発行をするまでに至りました。(現在は月刊アパマンショップ和歌山版)

●松尾 100頁というと相当な情報量になりますね。実際にはどのくらいの媒体効果が?
●竹内 お陰様で来店者の60パーセント以上が情報誌からの反響来店という状態でした。また、こうした媒体戦略を駆使しながらも、常に企業目標として掲げ続けたのが「地域社会に根ざした会社づくり」。そのため、積極的に展開していったのが多店舗展開なのですが、昭和58年の2号店出店を皮切りに、1店舗3~4名の社員体制で、昭和63年の8号店を出店するまでの6年間に合計7店の出店を完了。人口40万人の都市ですので、全8店舗のネットワークは和歌山市を完全に制覇するに至ったわけです。

●松尾 目標設定もさることながら、クリアに至るまでのプロセス、戦略、そして展開と、まさに堅実かつ着実な事業展開でいらっしゃいますね。バブルの影響などはなかったのですか?

●竹内 それはありましたね。バブル経済に便乗する形で業務が拡大していったわけですが、その崩壊に伴い、当社も経営方針を修正せざるを得ない状況に陥ったことは否めません。そこで、まずは業界の動向を正確に掴むことを最優先事項とし、体制づくりの強化を図っていきました。そのためには、首都圏を中心に全国的に情報収集が図れるチャネルを持つこと、そして同業他社の成功事例を学び、ノウハウを得ることが重要であると考えていたところ、同じような考えの組織団体(賃貸管理ネットワーク)があることを知りましてね。組織活動に積極的に参加すると共に、共同して利益を生み、共生できるシステムづくりをテーマに、経営方針の修正を図っていきました。

●松尾 竹内社長は、全国賃貸管理ビジネス協会の副会長も兼任しておられますが、その前身が賃貸管理ネットワークということになるのでしょうか。

●竹内 そうです。この団体はもともと平成3年に設立された「全国賃貸管理業協会」が改組・改称したもので、「社会と会員の夢を実現する賃貸管理業の未来創造共同体」をテーマとし、活動しております。共同の商品企画などにも取り組み、ここから共済会による入居者対象の家財保障やピッキング防止のカードキーなど、様々な商品も生まれました。また、平成11年には協会メンバーによる「アパマンショップ」フランチャイズチェーンを結成。全国792店(平成17年4月現在、日本最大の賃貸斡旋店舗数)のアパマンショップで扱う物件がインターネットを通じ即座に検索できるほか、地域密着型のFCならではの優良物件が多数揃っています。現在は、このアパマンネットを最大限に活かしつつ、和歌山市内に5店舗、大阪府内に4店舗、関東圏では横浜に1店舗の合計10店舗、また、グループ会社としては、「レンタルハウス大阪」「テイエヌコーポレーション」「住通サービス」の3社10店舗を大阪府下・市内に起ち上げ、ネットワークを展開しております。 
 
幸せになるために夢を持つ、という発想

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●松尾 今後の展望についてはどのようにお考えですか?
●竹内 この業界に参入して、はや35年。来年還暦を迎えるにあたり、後継者選びにも真剣に取り組まねばならない時期に来たかなと思っております。優秀な人材への分社化などを積極的に行っていく傍ら、私自身はこの業界を通じて知り合った様々な人脈を活かしながら、またゼロから、新しい試みに挑戦しようと考えているところなんですよ。今はまだ具体的にはお話できませんが、その策をいろいろと練っている段階です(笑) 時期が来れば、広く報じようとは考えております。

●松尾 これはまた興味深いお話です(笑)その節はぜひご教授ください。さてお話は尽きませんが、最後に竹内社長のモットーをお聞かせいただきたいのですが。
●竹内 これは私自身のモットーであり、当社の社員教育プログラムにも活用していることなのですが、「3KM」という言葉を常に念頭におくように心掛けております。3つのKとは「個人・家族・会社」の意であり、1つのMとは「モチベーション」。人間社会とは、まず個人があり、個人と個人の繋がりが家庭を生み、そして家庭の集まりが社会を作る、という発想です。つまり、一番大切なものは個人であり、個人の在りたい姿・夢、をしっかりと持っていなければ、人間としての成長はないと私は考えます。まず自分自身の夢があり、家族としての理想があり、社会の中での目標がある・・・。何の目的意識も持たなければ、人は一歩先へも前進することができません。要は、設計書がなければ家が建たないのと同じなんですよ。人生を一つの航海に例えるならば、船出したものの、行き先不明ではいつまでたっても漂流しているのと変わらないということです。どこに向かうのか?何を経由するのか?どんなことをしながら進むのか? 明日は明日の風が吹く・・・という考え方も確かにありますが、少なくとも計画性がなければいけない。夢のある人には理想があります。理想がある人には信念があります。信念のある人には計画性があり、計画性のある人には行動力が生じる。そして、行動できる人は結果を出すことが出来るものなのです。

●松尾 確かに、おっしゃるとおりだと思います。
●竹内 こうした発想から、当社では全てのスタッフに、この3つの夢の設計書を作成するよう促していましてね。「生涯しあわせ設計書」と名付けているのですが、私は新入社員が入社してくる際には、必ずどんな夢を持っているのかを聞くようにしているのですよ。最初は漠然とした夢であってもいいのです。それを少しずつ、具体的な目標にしていけばいい。はっきりとした、明確な目標を見つけられた人間は、どんどん強くなっていけるものだと私は考えています。好きな詩の中に「男子志を立てて郷関を出ず、学若し成らずんば死すとも帰らず」という一句があるのですが、まさにこの思想ですね。石に噛り付いてでも成し遂げようとする強い心。夢は変化しても良いのです。年を重ね、情報を入手することで、発想もまた変わっていくもの。その度に軌道修正して、また走ればいい。そうした柔軟性がベンチャー企業の強みでもあるのですから。

●松尾 本日は良いお話を、本当にありがとうございました。
 

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